作ることで学ぶ Makerを育てる新しい教育メソッドを読んだ。

作ることで学ぶ Makerを育てる新しい教育のメソッド

作ることで学ぶ Makerを育てる新しい教育メソッド

  • Sylvia Libow Martinez、Gary Stager著
  • 阿部和広監修、酒匂寛訳
  • 読書時間は30時間程度。

本書は、Makerを育てるための教科書的一冊。 抽象的な学習理論や教示理論については第1~3章で軽く触れられているだけで、 その他では具体的な教育実践の方法論がチュートリアル的に述べられている。

さて、本題。 監訳者まえがきで

なぜ私たちはものを作るのでしょう。さらには、なぜそれを子供たちに教えようとするのでしょうか。 その答えのひとつは、私たちは生まれながらのメイカーだから、というものです。

と述べられている。Makerとは、ものを作る人でありそれ以上ではないよう。 (とってもどうでもよいが、この場合、子供ではなく子どもと表記するのが正しいと思うが、 考慮をした上で子供と表記しているのならば、少し意味がわからない。)

原題は、Making, Tinkering, and Engineering in the Classroomであり、 Makerの世界ではメーキング、ティンカリング、エンジニアリングの三つのプロセスを すべての教室で使われるべき「知るための方法」であるとしている。 ここで原題のin the Classroomは、学校におけるクラスを指すわけではなく、 教育が行われるすべての場所を示している。

Makerを育てるための学習理論である「構築主義」はシーモア・パパートが1986年に

心理学の構成主義の理論を教えるところにより、私たちは学習を知識の伝達ではなく、再構築としてとらえる見方をとります。 そのうえで、私たちは取り扱い容易な素材を用いて、有意義な成果物の構築を学習者が経験する活動こそ、もっとも効率的な学習であるとの考えに至りました。

と定義した[1]。 ここでいう構築主義は、構成主義を一歩進めた学習理論といえる。(一歩進めたというよりも部分集合といったほうが適切なような気もする。) 構成主義は、”頭の中”で既存の知識と新たな経験をそれぞれが組み合わせることによって新しい知識を積極的に構成することに対し、 構築主義は、”共有可能な成果物”で既存の知識と新たな経験を組み合わせるという点が異なる。

構築主義に対比されるのは伝統的な学習方法である教示主義である。 以下は読書中のメモ。

どうでもいいことかもしれないが、構築主義と教示主義の歴史的な対立の一方には矛盾があることがわかる。 その矛盾とは、教示主義における学習方法を教示主義によって獲得することはできるが、 構築主義における学習方法は構築主義によって学習することはできないということである。 構築主義の教本にはある程度のメソッドや実践例などが多数指示されているし、 その枠組みのなかでの実践となるわけなので、その中での破壊的イノベーションを起すことは到底難しいのではないか。 そういう意味でワークショップが現場現場でしか適応ができないということもわかる。 が、ならば、経験を積んだものがちみたいなことになってしまうのではないかなぁとも思う。 例えば、飛行機のパイロットがシミレーションで経験していたエマージェンシーに対応できるのは、 彼らは構築主義によるものではなく教示主義によるものであろう。 (この分類はいささか怪しいような気がするが。というのも、何をもってしてこの二つに線引ができるかがわからないからだ。 ただ、パイロットは解決策を自分たちで見つけるわけではなく、シミュレーションを行うのだ。) ということは、新たな問題に対応するということにおける、構築主義のメリットというのは このようなところにないのではないかと思った。

これは構築主義の起源への疑念だと思うが、 言い換えると、構築主義における知識の獲得が可能になるのは”いつなのか”という疑問である。 P.150では3Dプリンタの使用方法を知らない教師が3Dプリンタを授業で採用することにした例を

何日も何時間もかかりましたが、いまは自分が何をしているのかをわかっているつもりです。私は製造元のウェブサイトにある情報や、FAQのページというページに目を透しました。最初に私は、送りチューブ交換し、新たなフィラメントをロードする方法を学びました。(中略)このため、私はABSとPLAの違いを学び(ABSはより堅牢で、PLAはより安価です)、ノズルごとのプリント時の温度や回転数を変更する方法を学びました。

あげている。ここで教師であったカレン/ブランバーグは問題が起きたために自然に調査をし、これは生徒たちが参考するべきような振る舞いをした。 つまり、構築主義における知識の獲得はある程度の前提知識は必要とするものの(言語能力など。)、何も知らない・理解もしていない問題に対してもアプローチ可能であることを示唆する。 (しかし、やはり構築主義の起源に関しては疑問がある。生まれた瞬間の赤ちゃんが構築主義ができるとは到底思えないし、どういった点において構築主義が有効なのだろうか。また、その各々の研究が大事であるということは各ワークショップ系勉強会がジャーゴン化するしかないといったほうがよさそう。)

こうなると、これまで教室において教師や大人が担っていた役割はどこにいくのであろうか。 P.102において、講義をしない教師の役割をフィールドワーカ、記録者、スタジオ・マネージャ、賢明なリーダの4つに絞れるとする。 また、これまでの教師のあり方を強い言葉で批判します。

教育者ではない人が、講義をする教師を見て「あれが教えるということなんだな」と考えるのは不思議ではありません。 講義は、教師が行うことの中で一番明白で、目に見えるものなのですから。 しかし、「話すこと」が教師の主たる仕事であってはありません。生徒たちについて「学ぶこと」こそ、主たる仕事であるべきなのです。

教師の役割はファシリテータなのであろうか。 また一方で既存の教師がもっていた「教える人」といったような権威性はなくなってしまうのではないか。 これは、教師が必ずしも教師である必要がないということである。 一度体験した授業を次は教える側に回る、そんな授業形態であっても良さそうである。 広い時間的範囲でのピアレビューと呼べそうだ。 それと構築主義の授業による評価において、振り返りに言及されているが、あまり多くの時間を取る必要はないとも語っている。 振り返りとメタ認知の関係については理解した上でそういっているようなので学習の定着はあまり関心がないようだ。

構築主義教室の実践方法は様々あるようなので、参考にするときはこの本を読むことにする。

読む前は、デザイン思考や計算論的思考の実践例が書いてる本だと思っていたが全くそんなことなかったのは驚いた。 言及されているのは一箇所

「デザイン思考(Design Thinking)」と「計算機科学者的思考法(Computational thinking)」は、教育のホットな話題です。 デザインやアルゴリズムを教えることで生徒たちの「考えるスキル」を向上させようという目的は立派なものですが、 生徒たちにとって意味のあるコンテキストからはずれて導こうとすると、試みはしばしば目標達成に失敗します。(中略) コンピュータを使わない計算機科学者的思考法や、ものづくりをともわないデザイン思考は、生徒たちに必要な21世紀のスキルを貧しいままにしてしまいます。

とあくまでも何かを作ることによって知識の獲得を目指すことには賛成しているが、 その他の方法での上澄みだけちょろっとすくったようなものではダメだと言ってる。 これについては概ね賛成であるが、そういったことを議論するためには少しばかり言及箇所が少なすぎるように思える。 本当に、Makerでなければいけないのかとは思う。 (それとcomputationa thinkingを計算機科学者的思考法と訳しているのは初めてみた。脚注で監訳者が説明をしているので独自の訳なのだろうが、computational thinkingは計算機を扱う人の思考法をいっているわけではにので、これは意訳に思う。たとえニュアンス間違いであったとしても、プログラマ=計算機科学者とはいえないだろう。)

その他

書くのに5時間ぐらいかかったような気がするしあまりまとまっていないような気がする。 ブログを50本書いたら修士論文ができるかなぁと漠然と思っているがこのペースだととてつもない作業量になりそうなので 読むスピードも書くスピードもあげていく。

[1]Papert, Seymour. (1986). Constructionism: A New Opportunity for Elementary Science Education. Messachusetts Institute of Technology, Media Laboratory, Epistemology and Learning Group: National Science Foundation. Division of Research on Learining in Formal and Infomal Settings.